そもそも“鬱病が治る”という概念は、「もとの生活ができるようになる」ということではないよね。ある人がある環境の元で暮らしていて鬱病になり、生活する気力を失ってしまいました、と。治るというのは「失った“生活する気力”を取り戻すこと」であって、「病の原因となった厳しい生活に戻っても全く問題なく生活できるような強靱な精神力を“新たに”体得する」ということではない。
人にはそれぞれ自分が耐えられる範囲が決まっている。プレッシャーにしても花粉にしてもね。その限度を超えたら病気になるのだ。病気がなおったら、そういう自分の苦手なものとは縁のない生活を選んで暮らすというのが基本なのだ。
なんかつまらないことになってるなぁ。
引用元の文章を書いているヒトは俺はよく知らないのだけれどもムサビで写真の講座を持っているヒトらしい。写真論か写真史にまつわるようなことを講義で持っていると書いてあったような気がする。
批評家が批評の上でならある作品に対して何を言ってもいいという理屈がまかり通るなら、警官はどんな的外れな容疑でも容疑さえあるならば道往く人を逮捕してもいいという話になる。暴論に聞こえるかもしれないけどこれは暴論だ。そういう話がここで行なわれているんだよ。
単に的外れなことを言っているだけならともかく、修辞でぼやかしてはいるけれども内容としては「内原のスタンスはこうだ」という言い切りになっているから作家としてそういうことを流布されるのは心外だという話になっているんだと思う。(「この作家のスタンスはこうだ」というような言い切りはかつて80年代に伊藤俊治や高橋周平などがよく用いていた書き方だけれども)せめて「内原の作品を見て自分が感じるのはこういうスタンスである」くらいの書き方であればまだしも。。という気はする。
そう、文化への悪意。内原の確信犯的な視線の核となっているのは、文化への悪意にほかならない。という言い切りに対して「俺はそんなことは一切思っていない。勝手なことを言うなこら」と言われているだけでシンプルな話だ。それを「写真家の意に沿わない批評(感想)を書くことが脅かされることへの危惧」というのはどうだろうか。
単に自分でそれに失敗しただけだと思う。批評をするからには「それは外れだ」と言われることもまた覚悟すべきだろう。学究のためなら個人の大事なものをいくら踏みつけてもいいというわけではない。順番が間違っていると俺は思うよ。
ontheroad: 子供のケンカかと思う.公に何かを発表するのであれば,好むと好まざるとに拘わらず,こういった批評にさらされるのはあたり前のこと.反論があるなら反論すればいい.それを”オレの写真をまったくわかっていない.黙れ”というのは言論弾圧にも繋がる.それでは誰も何も書けなくなるじゃないか.
作家たるもの,作品を公表した時点でその作品はすでに作家の手をはなれているのを自覚しなくてはならない.それができなければ発表するなと言いたい.家にこもって”いい作品だ”と自画自賛しておればいい.というのが率直な感想だが,ちょっと厳しすぎるか.
それにしても, ”文化への悪意”と指摘された内原自身がそれにくってかかるとは,まさしく,本人が自覚している,してないにも拘わらず,それを自ら証明しているようなものじゃないか.まあ,くってかかるということは,自覚していないのだろう.少なくとも”確信犯”ではなかったというわけだ.
個人的には,彼の写真はもっと衝動的な何かから撮られているような気がしてならなかった.いろいろと悪態ついてみたり,噛み付いてみせるのは,その裏付けを本人も探しているのかもしれないと感じていた.
そういう意味では,その行動そのものが写真の糧になってるというのは,あながち間違っていないのだろう.たとえ,本人が違うと言ってもこの世には本人自身にもわかっていないことだって沢山あるのだし.ただしそうなると,”文化”なんて生易しいものじゃなくて,”エスタブリッシュメント”そのものだと感じるのは,買いかぶり過ぎか.
仕事頑張ります
冨樫 京都府 40〜49歳 男性 2007/08/19 17:37:44
ゲームばかりして仕事もせずだらだらすごしてる毎日でしたが24時間テレビを見て私もまた頑張ってみようと思いました。
10月から再開するつもりです。